特典:短編小説「私は恋をする」
#1 - 2023-10-27 17:02
仓猫
Love looks not with the eyes, but with the mind
恋は目ではなくて心で見る
——ウィリアム·シエイクスピア
中高一貫の女子校に通っていたし、中学の終わりのころからずっと入院していたし、高校は通院を優先して途中で辞めることになったしで、結局私は恋愛せずに一九歳になってしまった。
私は、まだ、恋を知らない。
大学生になって、体も調子よくて、やりたいことをぜんぶやってやろうって、そんな希望を胸に入学式で知り合った友達に頼んでみて、手始めに大学の歓迎会に飛び込んでみた。
月島の街を優子ちゃんと歩いて、「この居酒屋だよ」って言われたお店に入った。目が見えない私は、まず「いらっしゃいませ!」と店員さんの大きな声に驚いた。
ぎしぎしと鳴る細い階段を心躍りながら上ってみると、なんだか広い雰囲気の部屋に通された。
みんなはまだ集まっていなくて、「ここに座ろっか」って言われた席に座っていると、ぞろぞろ人の気配がした。
優子ちゃんの「こんばんは」と声がして、私も「こんばんは」と声を出して、そして複数サークル合同の新入生歓迎会がはじまった。
人が入れ替わり立ち替わり話しかけてくれた。そのたびに、この人はどんな人なんだろう、この人は? この人は? と、声と内容と雰囲気と、いろいろ話しかけてくれた人のことを想像した。
周りはガャガャしていて、手を叩く音がして、だれかの笑い声がして、張り上げる声がして、私は楽しそうな雰囲気に包まれる。
となりの部屋から「ハッピバースデー」の声がして、みんながとなりの部屋に最大限の「八ッピバースデー」を返す。
すごいすごいすごい! こんなに楽しくて自由な宴会があるんだ!ムのヒールかけのような、そんな楽しそうな感じなんでしょうか。
わくわくした。私は、わくわくしていた。
すると、となりから優子ちゃんの声がした。
「ごめんね」
不安そうな声にハテナと思う。
「どうしたんですか?」
「みんな小春ちゃんに話しかけて、すぐどっか行っちゃって」
「そんな気にしなくていいですよ~。みんなもなるべくたくさんの人と話したいんだと思いますし。話しかけてくれるだけで感謝です!」
「いや、そういう感じじゃなくて…」
優子ちゃんはやさしいなあ、なんて思った。
入学式で知り合った優子ちゃんはとてもやさしい人だった。新入生才リエンテーションで私が困っていると話しかけてくれたり、大学の講義選びを手伝ってくれたり、今日だってサークル合同の新人生歓迎会に付き添ってくれて、もう感謝しても感謝しきれない。
「それより、飲み物、追加する?」
「じゃあ、 オレンジジュースをお願いします」
すみませーん、と優子ちゃんは声を上げる。
すっごく気遣いができて、声もかわいくて、袖のところを触ったら、なんだかふわふわな洋服を着ていて、きっとかわいい人なんだろうなあって思う。
きっとモテるんだろうなあ、なんて考えた。だって優子ちゃん絶対かわいいと思う!
ここで私はふと気づく。
みんなの目には私はどう映っているんだろうって。
優子ちゃんのとなりに座っていると、少し自信がなくなってくる。
洋服もメイクも、どこか変じゃないかな。そんな気持ちになる。
けど、洋服もメイクも出発前におかあさんから「かわいい」って言ってもらったし……うん、今はおかあさんを信じるしかない、と気持ちを切り替えることにした。
だって今は楽しまないと損なのだ。
「小春ちゃん、ちゃんぼん食べる? みんな食べなくてのびのびだけど」
「私は大丈夫ですよ」
「じやあ、私食べちゃおうっと!」
食ペちやおう、だって。ほんと優子ちゃんはかわいらしいなあ。
そんなことを思っているときだった。
「ぢゅうもーく!」
その声にみんなはしんとする。この声は確か乾杯前の自己紹介で、「好きな星座は夏の大三角です」って言ってた天体観測部の部長さんだったはず!
なにをするんだろうってドキドキだった。
そのときた。
「新入生の早瀬優子さん!」
部長さんが優子ちゃんの名前を呼んだ。私は「え、え」と小声を出して、立ち上がる優子ちゃんをペちペち叩いていた。優子ちゃんは「食べてるのに」とすっごく恥ずかしそう。
「俺、ひと目惚れとかしたことないんだけど、正直我慢できない。俺と付き合おう」
その言葉を聞いたとき、私は心の中で「ぎゃー!」と叫んでいた。
やっぱり優子ちゃんモテモテなんだ。だってかわいいもん! と自分ごとのようにうれしくなる。さあ、優子ちゃん、なんて答えるの、なんて答えるの。そんなことを考えていたけれど、
「ごめんなさい! 全然、タイプじゃないです!」と、優子ちゃんはバッサリだった。
「まじ?」部長さんが聞いた。
「まじです」優子ちゃんが答える。
雷鳴のような大きな拍手が沸き起こって、みんなの大笑いが聞こえた。
部長さんの一世一代の告白だったのかもしれないのに、そんなに笑わなくても、と心配になったぐらいだ。
「いや~、恥ずかしかったよ~」
優子ちゃんがとなりに座ったようで、そんな声が聞こえた。
「優子ちゃん、モテモテだね!」
そう官うと、優子ちゃんは静かに、恥ずかしそうに言った。
「私の何を見て好きって言ったのかな」
「ぞれは……やっぱり見た目とか、雰囲気……でしょうか?」
すると優子ちゃんは残念そうに答えた。
「見た目だけ好きって、なんだか信用できないよ」
声が沈んでいた。優子ちゃんは自分に自信がないのだろうか。
私は好きだって言われたことがないし、好きだと思ったことがない。ひと目でこの人いいななんて思ったことがないし、もう目が見えなくなった私は、これからもそんなことを思うこともない。
だから、共感したかったけど、共感できなかった。
歓迎会がはじまって、いろいろな人が話しかけてくれた。
いろいろな出会いになったはず……と思う。
けど、優子ちゃんの言葉を聞いて、なんとなく不安になった。
この人いいなとか、素敵だなとか、そういう感情がまったく湧かなかった。
つまり、恋とはなにか。
まずそこから私は知らないんじゃないかと、気づいてしまった。
どうしょう。大学生になっていろんなことにチャレンジしようと思っていたのに、最初っから大きな壁にぶつかってしまった気がする。
私は、恋ができるのだろうか。
♪
恋というものを想像してみた。
それはきっと、友達との楽しさとも違う、家族との安心感とも違う、食べ物の好きとも違う……のだろうか。
結局、恋に落ちるって、なんなんだろう。どういう気持ちなんだろう。
そんなことを考えながら授業を聞いていると、教授の話が、一瞬、飛んだ。
やばいやばい。聞き逃してしまった。
教授の説明がわからなくなる。
こいうとき、黒板が見えないってすごく不便だと思う。板書されている文字を見て、ああこの話かと追いつくことができない。
けど、今それを言っても意味がない。
説明の流れから、さっき聞き逃した話の流れを想像する。
……うん。わからないや、と結論に至る。
私はスマホを取り出して、音声レコーダーを起動する。本当は全部の講義を録音すればいいんだけど、それだと容量がいっぱいになっちゃうし、
録音していると安心して講義を聞き流レてしまうのもいやだと思って必要最小限しかレコーダーは使わないようにしている。なるべくメモを取ろうと思っている。
けどもう今日は、後で優子ちゃんに教えてもらおうって、いったんあきらめることにした。
あきらめるといっても、完全にあきらめるわけではない。優子ちゃんに教えてもらって話を補完して、あらためてレコーターから講義を聞き直す。
これは戦略的撤退なのだ。
そんなことを思いながら、ひとりでふふって笑った。
講義が終わり、優子ちゃんの声がした。
「次、一号館に行こ~」
「行きましょう行きましょう!」
次はふたりともスペイン語の講義だから、ふたりでスペイン語講義がある一号館へ移動する。
優子ちゃんは大講義室のうしろの階段で手を取ってくれた。そして「掴んでいいよ」って、私に右肘を掴ませてくれる。
「いつもすみませんなく」
おばあちゃんみたいなゆっくりした低い声でふざけてみると、
「小春さんやい、こんなのお安い御用ですよ」
と、優子ちゃんもおばあちゃんみたいな声を出して冗談に付き合ってくれた。
思わずあははと声が漏れてしまった。
「けど本当に、いつもありがとうございます」
「気にしなくていいよ~。次もいっしょの講義だし」
ありがとう、そう言っている最中に、エレベーターの「チン!」って音がした。エレべーターが古いのか、このエレペーターに乗り込むと床が少し沈んだような感覚がする。
こんな感覚があると、エレベーターってただの口ープにつるされた箱なんだなって再認識してしまって、いつかロープが切れて落下するんじゃないかって少し怖かったりする。
実は私はこの手の古いエレペーターが苦手だ。
「それより、さっきの講義で聴き取れなかったところとかあった?」
「ぞうです。ちょっと考え事しちゃってですね、聞き飛ばしてしまったところがあって……」
「じやあ、後で教えてあげるよ」
ありがとう、そう言おうとすると、またエレベーターから「チン!」と音がした。
ようやく降りられる……と思って外に進もうとすると、優子ちゃんに「まだだよ」って腕を掴まれた。まだ途中なのでしょう。
それから、何人かの重みが加わったのか、床がさらに沈んだ気がした。
ひえ~、ローブが切れる~、そんな想像をしていると、
「もしかして、小春ちゃん、エレべーター苦手?」
「へ? な、なんですか?」
「…なんとなく、そうかな~って」
優子ちゃんが何か隠し事でもあるような声だったような気がした。
どうしたの? って聞こうとしたら、今度はちゃんとエレペーターが一階に到着したようで、「着いたよ~」って優子ちゃんが言った。
なんだかさっきから言葉のタイミングを逃してばかりな気がする。
ただ、これは優子ちゃんに聞いておきたかった。
「ねえ優子ちゃん」
「なに?」
「優子ちゃんって恋したことありますか?」
聞くと、「あるけど……小春ちゃん、好きな人ができたの?」と優子ちゃんは驚いていた。
「逆です逆。好きな人がわからないんです。むしろ恋ってなんだろうって思っていて」
「そういうやつか~」と感嘆する優子ちゃん。
「ぞういうやつです~」
四号館から外に出ると葉擦れの音がした。階段を降りて、一号館へ向かう。
優子ちゃんは横で、う~ん、と考えている。
「別に、そこまで困ってるわけじゃないので、そんなに考えなくても…」
あまり困らせでも申し訳ないので、そう言うと、優子ちゃんは「なんとなくだけど」と答えてくれた。
「やっぱり、いっしょにいてうれしかったりすることかな~」
「うれしい、ですか!」
「相手によく見られたかったり、逆に、人に見せられない自分を知ってもらって受け入れてほしかったり、そういう感じ……なのかなあ」
「複雑ですね」
「案外シンプルだよ」
——だって、いっしょにいるとドキドキするんだと思う。たぶん。
そんなことを優子ちゃんは言って、「恥っず!」と自分でつっこんだ。
ドキドキか~、とふと思う。
そういうのを一度は感じてみたいなって、思った。
大学の海側から風が吹いた。少しだけ海の匂いがした。胸いっぱいに吸い込むと、なんだか清々しかった。
♪
いっしょにいてうれしい人というか、いっしょにいて楽しい異性といえば、空野くんだったりする。
なんていうかな。空野くんは根はやさしい人だと思うし、話していて面白い。
私が講義室で白杖を落として困っていると拾ってくれたし(しかも二度も!)、さっきだって私がピアノ演奏を披露したところ、作曲家はバッハだとかショパンだとか言って、笑わしてくれた。
いっしょにいて面白いけど、これは優子ちゃんが言っていたドキドキとは違う気がする。
うーん、恋とはなんぞや。
そんなことを寄えながら、空野くんの横を私は歩いていた。
大学祭実行委員の優子ちゃんからのお願いで、寮の敷地にある記念会館のビアノを試し弾きしてほしいとかで、
空野くんに案内してもらって試し弾きをした。帰り道、私たちは寮の敷地から大学まで戻っている最中だった。
足元からカツカッと自分が白杖を叩く音と、道路からは車の音がする。
「ぞういえば冬月ってさ」
横から空野くんの声がした。
空野くんとは肘を貸してもらうほどの距離感ではない。歩步き慣れていない道で白杖を叩きながら歩いていると、どうしても歩くべースはゆっくりになる。
けど、真横から空野くんの声がしたので步幅を合わせてくれているんだろうなって気がした。
「ざっき大講義室からエレべーターで降りるときに思ったんだけど、もしかして冬月って、エレべーター苦手?」
この前優子ちゃんに同じことを言われたのでドキッとした。
「え。な、なんでですか?」
「いや、だってエレべーターに乗ってると、目をぎゅっとつむってるから」
ふぐう……そうだったんだ……優子ちゃんがこの前言い淀んだことって、このことだったんだ……と、自分でも知らなかった自分自身の癖に、ショックを受けてしまった。
「古いエレペーターって、苦手で……」
「そうなの?」
「ロープが切れたら……って考えたことありません?」
いやないない、って空野くんは横で笑っている。
「今検索して調べたら、なんかエレベーターのロープって、重量の一〇倍の重さに耐えられるよう設計されているとか、ないとか」
「ぞうなんですか?」
「ごめん、やっぱりうそかも。それに、定期メンテナンスしないと危ないとか出てきた」
「なんですかそれ~」
空野くんの適当な言い方に笑ってしまう。けどすぐ調べてくれてうれしいなって思う。
「まああれだよ。よく言うじゃん。エレベーターが落下したときに助かる方法があるって」
「ぞんなのあるんですか?」
「エレべーターが底に着く瞬間にジャンプすれば助かるって」
「ええ~! そんなことできるんですか?」
たしかに……その瞬間飛んでいれば、自分がその場でジャンブしたことと変わらない……のかな?
すると空野くんは半笑いの声で答えた。
「本気出せば、できるん、じゃない?」
「あ、冗談ですか」
バレた、 と空野くんはおどけて、私は『も~」って言って、思わず笑いがこみ上げた。
本当に、話していて楽しい人だなって思った。
それから大学の裏門前の信号機を待つ間、ビアノの話になった。そして付き添ってくれてありがとうございますと伝える。
そのありがとうを伝えると、もうひとつ感謝を伝え忘れていることに気がついた。
今日も白杖を転がしてしまったこと、また空野くんが拾ってくれたことに感謝を伝えると、
空野くんの声は、冗談を言うときの低い声から照れ隠しなのか半音上がった。
「僕が拾うとは、限らない……じゃん」
「げど拾ってくれましたよね」
さっきの冗談の仕返しだと言わんばかりに私はにこりと笑ってみる。
「空野さんが講義中に当てられていて、いるんだーって思って、またテラス席でお茶できないかなって思ったんですけど、
講義室で『空野さん』って呼ぶのも恥ずかしいじゃないですか。けど、またこうやってお話しできてよかった」
自然とそんな言葉が出た。
無意識にそんな言葉を口にしていて、そっか、私は空野くんとお話できてうれしいんだ……と気がついた。
「LINE交換したんだから、連絡すればいいじゃん。別に講義室で声かけなくっても」
そう、空野くんは言ってくれた。
この前LINEを交換してからというもの、空野くんから連絡してくれたことはなかった。
けど、私から連絡していいんだと知って、「やった」って思った。
「やった」ってなんだろう。そんなことを思う時点でこれは恋なのか?
と、私はふしぎに思っていた。
確かめたかった。
かけるくんって呼んでいい? って聞いてみた。
かけるくんからOKがもらえて、また「やった」って思った。
月曜日の一限終わりにテラス席でお話ししましょうと誘ってみた。
またOKがもらえて、「やった」って思った。
そうやって、「やった」が重なっていく。
この「やった」って感情は、どういう感情なんだろう。
優子ちゃんが言っていた、ドキドキとは違う気がする。けど当たらずといえども遠からずという気もしてくる。
わからない。知りたいな。
月曜日の一限のあと、かけるくんに花火サークルに付き添ってもらった。
ふたりで冗談まじりに歩いているとすごく楽しかった。
この楽レいという感情は、友情に近い気がするし、そうじゃない気もしてくる。
だから確かめてみようと思った。
一度、デートでもしてみれぱはっきりするかもしれない!
ちょうど花火サークルへの入会はお断りされてしまって、じゃあ自分で花火を買うしかない、かけるくんと花火を買いにいけたらなあなんて思っていたところだった。
「あきらめたくないなあ」
そう前振りして、演技っぼく言ってみる。
「ぞうです!」
表情が見えないから、無言になったかけるくんのリアクションがわからない。
きっと、何を言い出すんだ? くらいは思われているのかな。
そのくらいで私は止まらない。
「花火、やりましょうよ!」
確信に迫ることを口にすると、かけるくんからすぐに声が出た。
「拒否する!」
え~、そんなに断らなくても。
だって悔しいじゃないですか! そう言っても共感ゼロだった。
もうって思った。かけるくんを誘うことに意固地になりそうだった。
「そうだ! 浅草橋に花火専門店があるそうなんです」
「断固拒否する」
「もうひと声!」
「もうひと声ってなんだよ」
これでもダメか……じやあ、褒めて持ち上げる作戦だ。
「かけるくんは良い人だなあ」
「え。行くことにされてる?」
本当にOKしてくれない。
なかなか手強いな、なんて考えていたら笑いが出た。
そして、私は最終手段に出る。
脅しみたいになるから、これは使いたくなかったけど……そう思って、にこって顔を作っ
「栞、失くしましたよね」
え……と、数秒間が空いて、ついに観念したのか、「お願いします」とかけるくんはデートをOKしてくれた。
ずっと友達と打ち上げ花火がしたいと思っていた。
みんなで準備して、浜辺とか公園で「いくよー」って声をかけて打ち上げていく。
あのとき花火したよね。そうやって思い出話ができる相手とか、夜空を見上げた思い出があることは、きっと人生の支えになると思う。私はそうだと思っている。
その思い出の中に、かけるくんがいるところを考えると、少しうれしくなった。
♪
結論を言うと、デートはずっと楽しかった。
前日に電話で待合場所と時間を決めたときから楽しみだったし、当日の朝に支度しているときから楽しかった。
かけるくんと会って、地下鉄で移動しているとき。
人が電車に乗ってきた気配がして、かけるくんの声が近くなった。
「もしかして混みました?」
そう聞くと、「なんで?」と半音上がった声で聞いてきた。
私は余裕のある場所に立ったままで、だれかに触れるほど混み合った印象はなかった。
もしかすると、かけるくんが守ってくれているかもと、そう思うとうれしかった。
地下鉄から降りて、喫茶店で私の過去を聞いてもらったとき。
「実は私、かけるくんのいっこ上なんです。ちゃんと敬ってください」
テンションが上がっていたのか、べらべらと話しすぎた……と後悔したけれど、かけるくんは私の誕生日と自分の誕生日を比ペて冗談にしてくれた。
「五日の年上なんて、タメで十分」
そう何気ない態度を取ってくれた。
それから、花火をずっと選んでくれて、デートの帰りは水上バスに乗ろうって言ったときも。
「らょっと待って、調べるから」
スマホを取り出して乗り場をすぐ探してくれるかけるくん。
「あ、蔵前橋を渡って両国に乗り場があるね。大学あたりに着くみたい」
やさしいなあ、って思った。
いつからだろう。かけるくんといると、ずっと胸が弾んでいることに気がついた。
水上バスに乗せてくれたからだろうか。連れてきてくれただけで感謝なのに、屋上デッキに乗りたいというと、かけるくんはそれもOKしてくれた。
階段を上るとき、かけるくんが手を取ってくれた。
手に、かけるくんの体温が伝わる。暖かな日向のような手だと思った。
「かけるくんの手ってほんと温かいですよね」
「いいから、足を打ったら痛いよ」
そう恥ずかしそうに、また声を半音上げている。
その半音上がる声を聞くのがいいなって思った。
「ぼら、正面の腰の高さに手すりがあるから、そこを持って」
かけるくんが安全なところに誘導してくれる。
船のエンジン音がして、船体が少し揺れている。
風が吹いて、川の匂いがした。小学校の時、錦鯉が泳いでいた池の匂いのようだった。この隅田川にもお魚は泳いでいるのかな。
「きれいですか」
どんな景色なんだろうって、聞いてみる。
すると、「景色、見えないよね」と私を気遣ってくれるような声が返ってきて、思わず頬が緩んでしまった。
「見えないですけど、楽しいですよ。まだ目が見えているとき、たぷん、同じ場所で景色を見たことがあります。その景色を思い出していました」
「そのときはどんな景色だったの?」
「うーん、曇っていた気がします」
そう言うと、かけるくんはやさしい声を出してくれた。
「今日はすごく晴れていてさ、空も青いんだよ。その青色が水面に映っていて、すごくきれい」
「見えない私に、言わずともそういうことを教えてくれるって、やさしいですね」
そう言うと、かけるくんはまた声を半音上げた。褒められることが弱点なんだろうか。
おかしくなって笑ってしまう。
ほんと、ふたりでいると「ずっと楽しい」が続いていく。
船内から出発のアナウンスが流れ、船は進み始めた。
水上バスはすいすいと川を走っていく。
頬の横を風が駆け抜けて、自分がまるで水の上を走っているような気持ちになる。
かけるくんと水の上を疾走していくようでとても楽しい!
「風が気持ちいね」
「ですね! 乗せてくれてありがとうございます!」
川の両サイドには高いビルが建っててさ、さすが都会って感じだよ」
「そうなんですか!」
「太陽がまだ高いからか、水面がキラキラしてる! あ、公園が見えてきた。東京って、川の横に公園を作りがちだよね」
そんなふうにかけるくんは私に景色を伝えてくれる。
別にお願いしていないのに、自分から。
もう……心に、「うれしい」があふれてしまう。
「おお!」
「どうしたんですか?」
目の前の橋の側面に永代橋ってあるから、永代橋っていう橋なんだろうけど、他の橋より低いんだ。頭をぶつけるかもしれないからしゃがんで!」
言われるまましゃがむと、かけるくんもしやがんだのか、正面からかけるくんの声がした。
「ごめん、思ったより低くなかった。全然ぶつけないや」
おかしくって、「なんですかそれ」とつっこんでしまう。
気がつけぱ、あはは、と声を出して笑っていた。
「東京湾に出たのかな」
かけるくんが立ち上がったのか、上から声がする。
「そろそろ到着ですかね」
「角度的に大学は見えないけど」
もう終わりか~、と残念に思いながら私も立ち上がったときだ。急に水上バスが揺れた。
そう思った瞬間、私は体勢を崩していた。同時に、かけるくんの手の温かさが肩に伝わった。
「きゃっ」
「あ、ご、ごめん」
助けてもらって、急に触れられて、なんだろう…心臓がバクバクと動いていた。
かけるくんに触れられたところが、熱をもったように熱い。ついでに私の頬も熱い。
「急に触ってごめん」
正面からかけるくんの声がする。つまりまだ抱えられている。
ドキドキドキと、心臓が元気に脈打っている。
あ……これか。
そう思った。
触れられると顔から火が出そうなほど恥ずかしくて、するっと言葉が出なくなって、考え思い返せば、朝から私は変だった。
いつもより支度を入念にして、別に話さなくていいことを力ミンクアウトして。
かけるくんによく見られたくて、かけるくんに知ってほしくて。
優子ちゃんの言葉をふっと思い出した。
『相手によく見られたかったり、逆に、人に見せられない自分を知ってもらって受け入れてほしかったり、そういう感じ……なのかなあ』
そうか。
そうだったんだ。
私は、もう恋をしていたんだ。
ありがとう、かけるくん。
いつも冗談を言って笑わせてくれて。
目が見えない私でもフラットに接してくれて。
さりげなくやさしくしてくれて。
恋を知らなかった私に、恋を教えてくれて。
すっごい、うれしい!
心臓はまだ強く脈打っている。私の内側から、ドンドン、と叩いているようだった。
支えてくれたかけるくんの腕の中で、かけるくんに満面の笑みを送る。
かけるくんが、少しは私にドキッとしてくれたらいいなって思いながら。
「すっごい楽しいです」
目が見えなくても顔が見えなくても人を好きになれるって知ったとき、私は泣きそうだった
私でもちゃんと恋ができるんだって、かけるくんの腕の中で泣いてしまいそうだった。
たけど、笑うことでぐっとこらえることができた。
《私は恋をする 了》
恋は目ではなくて心で見る
——ウィリアム·シエイクスピア
中高一貫の女子校に通っていたし、中学の終わりのころからずっと入院していたし、高校は通院を優先して途中で辞めることになったしで、結局私は恋愛せずに一九歳になってしまった。
私は、まだ、恋を知らない。
大学生になって、体も調子よくて、やりたいことをぜんぶやってやろうって、そんな希望を胸に入学式で知り合った友達に頼んでみて、手始めに大学の歓迎会に飛び込んでみた。
月島の街を優子ちゃんと歩いて、「この居酒屋だよ」って言われたお店に入った。目が見えない私は、まず「いらっしゃいませ!」と店員さんの大きな声に驚いた。
ぎしぎしと鳴る細い階段を心躍りながら上ってみると、なんだか広い雰囲気の部屋に通された。
みんなはまだ集まっていなくて、「ここに座ろっか」って言われた席に座っていると、ぞろぞろ人の気配がした。
優子ちゃんの「こんばんは」と声がして、私も「こんばんは」と声を出して、そして複数サークル合同の新入生歓迎会がはじまった。
人が入れ替わり立ち替わり話しかけてくれた。そのたびに、この人はどんな人なんだろう、この人は? この人は? と、声と内容と雰囲気と、いろいろ話しかけてくれた人のことを想像した。
周りはガャガャしていて、手を叩く音がして、だれかの笑い声がして、張り上げる声がして、私は楽しそうな雰囲気に包まれる。
となりの部屋から「ハッピバースデー」の声がして、みんながとなりの部屋に最大限の「八ッピバースデー」を返す。
すごいすごいすごい! こんなに楽しくて自由な宴会があるんだ!ムのヒールかけのような、そんな楽しそうな感じなんでしょうか。
わくわくした。私は、わくわくしていた。
すると、となりから優子ちゃんの声がした。
「ごめんね」
不安そうな声にハテナと思う。
「どうしたんですか?」
「みんな小春ちゃんに話しかけて、すぐどっか行っちゃって」
「そんな気にしなくていいですよ~。みんなもなるべくたくさんの人と話したいんだと思いますし。話しかけてくれるだけで感謝です!」
「いや、そういう感じじゃなくて…」
優子ちゃんはやさしいなあ、なんて思った。
入学式で知り合った優子ちゃんはとてもやさしい人だった。新入生才リエンテーションで私が困っていると話しかけてくれたり、大学の講義選びを手伝ってくれたり、今日だってサークル合同の新人生歓迎会に付き添ってくれて、もう感謝しても感謝しきれない。
「それより、飲み物、追加する?」
「じゃあ、 オレンジジュースをお願いします」
すみませーん、と優子ちゃんは声を上げる。
すっごく気遣いができて、声もかわいくて、袖のところを触ったら、なんだかふわふわな洋服を着ていて、きっとかわいい人なんだろうなあって思う。
きっとモテるんだろうなあ、なんて考えた。だって優子ちゃん絶対かわいいと思う!
ここで私はふと気づく。
みんなの目には私はどう映っているんだろうって。
優子ちゃんのとなりに座っていると、少し自信がなくなってくる。
洋服もメイクも、どこか変じゃないかな。そんな気持ちになる。
けど、洋服もメイクも出発前におかあさんから「かわいい」って言ってもらったし……うん、今はおかあさんを信じるしかない、と気持ちを切り替えることにした。
だって今は楽しまないと損なのだ。
「小春ちゃん、ちゃんぼん食べる? みんな食べなくてのびのびだけど」
「私は大丈夫ですよ」
「じやあ、私食べちゃおうっと!」
食ペちやおう、だって。ほんと優子ちゃんはかわいらしいなあ。
そんなことを思っているときだった。
「ぢゅうもーく!」
その声にみんなはしんとする。この声は確か乾杯前の自己紹介で、「好きな星座は夏の大三角です」って言ってた天体観測部の部長さんだったはず!
なにをするんだろうってドキドキだった。
そのときた。
「新入生の早瀬優子さん!」
部長さんが優子ちゃんの名前を呼んだ。私は「え、え」と小声を出して、立ち上がる優子ちゃんをペちペち叩いていた。優子ちゃんは「食べてるのに」とすっごく恥ずかしそう。
「俺、ひと目惚れとかしたことないんだけど、正直我慢できない。俺と付き合おう」
その言葉を聞いたとき、私は心の中で「ぎゃー!」と叫んでいた。
やっぱり優子ちゃんモテモテなんだ。だってかわいいもん! と自分ごとのようにうれしくなる。さあ、優子ちゃん、なんて答えるの、なんて答えるの。そんなことを考えていたけれど、
「ごめんなさい! 全然、タイプじゃないです!」と、優子ちゃんはバッサリだった。
「まじ?」部長さんが聞いた。
「まじです」優子ちゃんが答える。
雷鳴のような大きな拍手が沸き起こって、みんなの大笑いが聞こえた。
部長さんの一世一代の告白だったのかもしれないのに、そんなに笑わなくても、と心配になったぐらいだ。
「いや~、恥ずかしかったよ~」
優子ちゃんがとなりに座ったようで、そんな声が聞こえた。
「優子ちゃん、モテモテだね!」
そう官うと、優子ちゃんは静かに、恥ずかしそうに言った。
「私の何を見て好きって言ったのかな」
「ぞれは……やっぱり見た目とか、雰囲気……でしょうか?」
すると優子ちゃんは残念そうに答えた。
「見た目だけ好きって、なんだか信用できないよ」
声が沈んでいた。優子ちゃんは自分に自信がないのだろうか。
私は好きだって言われたことがないし、好きだと思ったことがない。ひと目でこの人いいななんて思ったことがないし、もう目が見えなくなった私は、これからもそんなことを思うこともない。
だから、共感したかったけど、共感できなかった。
歓迎会がはじまって、いろいろな人が話しかけてくれた。
いろいろな出会いになったはず……と思う。
けど、優子ちゃんの言葉を聞いて、なんとなく不安になった。
この人いいなとか、素敵だなとか、そういう感情がまったく湧かなかった。
つまり、恋とはなにか。
まずそこから私は知らないんじゃないかと、気づいてしまった。
どうしょう。大学生になっていろんなことにチャレンジしようと思っていたのに、最初っから大きな壁にぶつかってしまった気がする。
私は、恋ができるのだろうか。
♪
恋というものを想像してみた。
それはきっと、友達との楽しさとも違う、家族との安心感とも違う、食べ物の好きとも違う……のだろうか。
結局、恋に落ちるって、なんなんだろう。どういう気持ちなんだろう。
そんなことを考えながら授業を聞いていると、教授の話が、一瞬、飛んだ。
やばいやばい。聞き逃してしまった。
教授の説明がわからなくなる。
こいうとき、黒板が見えないってすごく不便だと思う。板書されている文字を見て、ああこの話かと追いつくことができない。
けど、今それを言っても意味がない。
説明の流れから、さっき聞き逃した話の流れを想像する。
……うん。わからないや、と結論に至る。
私はスマホを取り出して、音声レコーダーを起動する。本当は全部の講義を録音すればいいんだけど、それだと容量がいっぱいになっちゃうし、
録音していると安心して講義を聞き流レてしまうのもいやだと思って必要最小限しかレコーダーは使わないようにしている。なるべくメモを取ろうと思っている。
けどもう今日は、後で優子ちゃんに教えてもらおうって、いったんあきらめることにした。
あきらめるといっても、完全にあきらめるわけではない。優子ちゃんに教えてもらって話を補完して、あらためてレコーターから講義を聞き直す。
これは戦略的撤退なのだ。
そんなことを思いながら、ひとりでふふって笑った。
講義が終わり、優子ちゃんの声がした。
「次、一号館に行こ~」
「行きましょう行きましょう!」
次はふたりともスペイン語の講義だから、ふたりでスペイン語講義がある一号館へ移動する。
優子ちゃんは大講義室のうしろの階段で手を取ってくれた。そして「掴んでいいよ」って、私に右肘を掴ませてくれる。
「いつもすみませんなく」
おばあちゃんみたいなゆっくりした低い声でふざけてみると、
「小春さんやい、こんなのお安い御用ですよ」
と、優子ちゃんもおばあちゃんみたいな声を出して冗談に付き合ってくれた。
思わずあははと声が漏れてしまった。
「けど本当に、いつもありがとうございます」
「気にしなくていいよ~。次もいっしょの講義だし」
ありがとう、そう言っている最中に、エレベーターの「チン!」って音がした。エレべーターが古いのか、このエレペーターに乗り込むと床が少し沈んだような感覚がする。
こんな感覚があると、エレベーターってただの口ープにつるされた箱なんだなって再認識してしまって、いつかロープが切れて落下するんじゃないかって少し怖かったりする。
実は私はこの手の古いエレペーターが苦手だ。
「それより、さっきの講義で聴き取れなかったところとかあった?」
「ぞうです。ちょっと考え事しちゃってですね、聞き飛ばしてしまったところがあって……」
「じやあ、後で教えてあげるよ」
ありがとう、そう言おうとすると、またエレベーターから「チン!」と音がした。
ようやく降りられる……と思って外に進もうとすると、優子ちゃんに「まだだよ」って腕を掴まれた。まだ途中なのでしょう。
それから、何人かの重みが加わったのか、床がさらに沈んだ気がした。
ひえ~、ローブが切れる~、そんな想像をしていると、
「もしかして、小春ちゃん、エレべーター苦手?」
「へ? な、なんですか?」
「…なんとなく、そうかな~って」
優子ちゃんが何か隠し事でもあるような声だったような気がした。
どうしたの? って聞こうとしたら、今度はちゃんとエレペーターが一階に到着したようで、「着いたよ~」って優子ちゃんが言った。
なんだかさっきから言葉のタイミングを逃してばかりな気がする。
ただ、これは優子ちゃんに聞いておきたかった。
「ねえ優子ちゃん」
「なに?」
「優子ちゃんって恋したことありますか?」
聞くと、「あるけど……小春ちゃん、好きな人ができたの?」と優子ちゃんは驚いていた。
「逆です逆。好きな人がわからないんです。むしろ恋ってなんだろうって思っていて」
「そういうやつか~」と感嘆する優子ちゃん。
「ぞういうやつです~」
四号館から外に出ると葉擦れの音がした。階段を降りて、一号館へ向かう。
優子ちゃんは横で、う~ん、と考えている。
「別に、そこまで困ってるわけじゃないので、そんなに考えなくても…」
あまり困らせでも申し訳ないので、そう言うと、優子ちゃんは「なんとなくだけど」と答えてくれた。
「やっぱり、いっしょにいてうれしかったりすることかな~」
「うれしい、ですか!」
「相手によく見られたかったり、逆に、人に見せられない自分を知ってもらって受け入れてほしかったり、そういう感じ……なのかなあ」
「複雑ですね」
「案外シンプルだよ」
——だって、いっしょにいるとドキドキするんだと思う。たぶん。
そんなことを優子ちゃんは言って、「恥っず!」と自分でつっこんだ。
ドキドキか~、とふと思う。
そういうのを一度は感じてみたいなって、思った。
大学の海側から風が吹いた。少しだけ海の匂いがした。胸いっぱいに吸い込むと、なんだか清々しかった。
♪
いっしょにいてうれしい人というか、いっしょにいて楽しい異性といえば、空野くんだったりする。
なんていうかな。空野くんは根はやさしい人だと思うし、話していて面白い。
私が講義室で白杖を落として困っていると拾ってくれたし(しかも二度も!)、さっきだって私がピアノ演奏を披露したところ、作曲家はバッハだとかショパンだとか言って、笑わしてくれた。
いっしょにいて面白いけど、これは優子ちゃんが言っていたドキドキとは違う気がする。
うーん、恋とはなんぞや。
そんなことを寄えながら、空野くんの横を私は歩いていた。
大学祭実行委員の優子ちゃんからのお願いで、寮の敷地にある記念会館のビアノを試し弾きしてほしいとかで、
空野くんに案内してもらって試し弾きをした。帰り道、私たちは寮の敷地から大学まで戻っている最中だった。
足元からカツカッと自分が白杖を叩く音と、道路からは車の音がする。
「ぞういえば冬月ってさ」
横から空野くんの声がした。
空野くんとは肘を貸してもらうほどの距離感ではない。歩步き慣れていない道で白杖を叩きながら歩いていると、どうしても歩くべースはゆっくりになる。
けど、真横から空野くんの声がしたので步幅を合わせてくれているんだろうなって気がした。
「ざっき大講義室からエレべーターで降りるときに思ったんだけど、もしかして冬月って、エレべーター苦手?」
この前優子ちゃんに同じことを言われたのでドキッとした。
「え。な、なんでですか?」
「いや、だってエレべーターに乗ってると、目をぎゅっとつむってるから」
ふぐう……そうだったんだ……優子ちゃんがこの前言い淀んだことって、このことだったんだ……と、自分でも知らなかった自分自身の癖に、ショックを受けてしまった。
「古いエレペーターって、苦手で……」
「そうなの?」
「ロープが切れたら……って考えたことありません?」
いやないない、って空野くんは横で笑っている。
「今検索して調べたら、なんかエレベーターのロープって、重量の一〇倍の重さに耐えられるよう設計されているとか、ないとか」
「ぞうなんですか?」
「ごめん、やっぱりうそかも。それに、定期メンテナンスしないと危ないとか出てきた」
「なんですかそれ~」
空野くんの適当な言い方に笑ってしまう。けどすぐ調べてくれてうれしいなって思う。
「まああれだよ。よく言うじゃん。エレベーターが落下したときに助かる方法があるって」
「ぞんなのあるんですか?」
「エレべーターが底に着く瞬間にジャンプすれば助かるって」
「ええ~! そんなことできるんですか?」
たしかに……その瞬間飛んでいれば、自分がその場でジャンブしたことと変わらない……のかな?
すると空野くんは半笑いの声で答えた。
「本気出せば、できるん、じゃない?」
「あ、冗談ですか」
バレた、 と空野くんはおどけて、私は『も~」って言って、思わず笑いがこみ上げた。
本当に、話していて楽しい人だなって思った。
それから大学の裏門前の信号機を待つ間、ビアノの話になった。そして付き添ってくれてありがとうございますと伝える。
そのありがとうを伝えると、もうひとつ感謝を伝え忘れていることに気がついた。
今日も白杖を転がしてしまったこと、また空野くんが拾ってくれたことに感謝を伝えると、
空野くんの声は、冗談を言うときの低い声から照れ隠しなのか半音上がった。
「僕が拾うとは、限らない……じゃん」
「げど拾ってくれましたよね」
さっきの冗談の仕返しだと言わんばかりに私はにこりと笑ってみる。
「空野さんが講義中に当てられていて、いるんだーって思って、またテラス席でお茶できないかなって思ったんですけど、
講義室で『空野さん』って呼ぶのも恥ずかしいじゃないですか。けど、またこうやってお話しできてよかった」
自然とそんな言葉が出た。
無意識にそんな言葉を口にしていて、そっか、私は空野くんとお話できてうれしいんだ……と気がついた。
「LINE交換したんだから、連絡すればいいじゃん。別に講義室で声かけなくっても」
そう、空野くんは言ってくれた。
この前LINEを交換してからというもの、空野くんから連絡してくれたことはなかった。
けど、私から連絡していいんだと知って、「やった」って思った。
「やった」ってなんだろう。そんなことを思う時点でこれは恋なのか?
と、私はふしぎに思っていた。
確かめたかった。
かけるくんって呼んでいい? って聞いてみた。
かけるくんからOKがもらえて、また「やった」って思った。
月曜日の一限終わりにテラス席でお話ししましょうと誘ってみた。
またOKがもらえて、「やった」って思った。
そうやって、「やった」が重なっていく。
この「やった」って感情は、どういう感情なんだろう。
優子ちゃんが言っていた、ドキドキとは違う気がする。けど当たらずといえども遠からずという気もしてくる。
わからない。知りたいな。
月曜日の一限のあと、かけるくんに花火サークルに付き添ってもらった。
ふたりで冗談まじりに歩いているとすごく楽しかった。
この楽レいという感情は、友情に近い気がするし、そうじゃない気もしてくる。
だから確かめてみようと思った。
一度、デートでもしてみれぱはっきりするかもしれない!
ちょうど花火サークルへの入会はお断りされてしまって、じゃあ自分で花火を買うしかない、かけるくんと花火を買いにいけたらなあなんて思っていたところだった。
「あきらめたくないなあ」
そう前振りして、演技っぼく言ってみる。
「ぞうです!」
表情が見えないから、無言になったかけるくんのリアクションがわからない。
きっと、何を言い出すんだ? くらいは思われているのかな。
そのくらいで私は止まらない。
「花火、やりましょうよ!」
確信に迫ることを口にすると、かけるくんからすぐに声が出た。
「拒否する!」
え~、そんなに断らなくても。
だって悔しいじゃないですか! そう言っても共感ゼロだった。
もうって思った。かけるくんを誘うことに意固地になりそうだった。
「そうだ! 浅草橋に花火専門店があるそうなんです」
「断固拒否する」
「もうひと声!」
「もうひと声ってなんだよ」
これでもダメか……じやあ、褒めて持ち上げる作戦だ。
「かけるくんは良い人だなあ」
「え。行くことにされてる?」
本当にOKしてくれない。
なかなか手強いな、なんて考えていたら笑いが出た。
そして、私は最終手段に出る。
脅しみたいになるから、これは使いたくなかったけど……そう思って、にこって顔を作っ
「栞、失くしましたよね」
え……と、数秒間が空いて、ついに観念したのか、「お願いします」とかけるくんはデートをOKしてくれた。
ずっと友達と打ち上げ花火がしたいと思っていた。
みんなで準備して、浜辺とか公園で「いくよー」って声をかけて打ち上げていく。
あのとき花火したよね。そうやって思い出話ができる相手とか、夜空を見上げた思い出があることは、きっと人生の支えになると思う。私はそうだと思っている。
その思い出の中に、かけるくんがいるところを考えると、少しうれしくなった。
♪
結論を言うと、デートはずっと楽しかった。
前日に電話で待合場所と時間を決めたときから楽しみだったし、当日の朝に支度しているときから楽しかった。
かけるくんと会って、地下鉄で移動しているとき。
人が電車に乗ってきた気配がして、かけるくんの声が近くなった。
「もしかして混みました?」
そう聞くと、「なんで?」と半音上がった声で聞いてきた。
私は余裕のある場所に立ったままで、だれかに触れるほど混み合った印象はなかった。
もしかすると、かけるくんが守ってくれているかもと、そう思うとうれしかった。
地下鉄から降りて、喫茶店で私の過去を聞いてもらったとき。
「実は私、かけるくんのいっこ上なんです。ちゃんと敬ってください」
テンションが上がっていたのか、べらべらと話しすぎた……と後悔したけれど、かけるくんは私の誕生日と自分の誕生日を比ペて冗談にしてくれた。
「五日の年上なんて、タメで十分」
そう何気ない態度を取ってくれた。
それから、花火をずっと選んでくれて、デートの帰りは水上バスに乗ろうって言ったときも。
「らょっと待って、調べるから」
スマホを取り出して乗り場をすぐ探してくれるかけるくん。
「あ、蔵前橋を渡って両国に乗り場があるね。大学あたりに着くみたい」
やさしいなあ、って思った。
いつからだろう。かけるくんといると、ずっと胸が弾んでいることに気がついた。
水上バスに乗せてくれたからだろうか。連れてきてくれただけで感謝なのに、屋上デッキに乗りたいというと、かけるくんはそれもOKしてくれた。
階段を上るとき、かけるくんが手を取ってくれた。
手に、かけるくんの体温が伝わる。暖かな日向のような手だと思った。
「かけるくんの手ってほんと温かいですよね」
「いいから、足を打ったら痛いよ」
そう恥ずかしそうに、また声を半音上げている。
その半音上がる声を聞くのがいいなって思った。
「ぼら、正面の腰の高さに手すりがあるから、そこを持って」
かけるくんが安全なところに誘導してくれる。
船のエンジン音がして、船体が少し揺れている。
風が吹いて、川の匂いがした。小学校の時、錦鯉が泳いでいた池の匂いのようだった。この隅田川にもお魚は泳いでいるのかな。
「きれいですか」
どんな景色なんだろうって、聞いてみる。
すると、「景色、見えないよね」と私を気遣ってくれるような声が返ってきて、思わず頬が緩んでしまった。
「見えないですけど、楽しいですよ。まだ目が見えているとき、たぷん、同じ場所で景色を見たことがあります。その景色を思い出していました」
「そのときはどんな景色だったの?」
「うーん、曇っていた気がします」
そう言うと、かけるくんはやさしい声を出してくれた。
「今日はすごく晴れていてさ、空も青いんだよ。その青色が水面に映っていて、すごくきれい」
「見えない私に、言わずともそういうことを教えてくれるって、やさしいですね」
そう言うと、かけるくんはまた声を半音上げた。褒められることが弱点なんだろうか。
おかしくなって笑ってしまう。
ほんと、ふたりでいると「ずっと楽しい」が続いていく。
船内から出発のアナウンスが流れ、船は進み始めた。
水上バスはすいすいと川を走っていく。
頬の横を風が駆け抜けて、自分がまるで水の上を走っているような気持ちになる。
かけるくんと水の上を疾走していくようでとても楽しい!
「風が気持ちいね」
「ですね! 乗せてくれてありがとうございます!」
川の両サイドには高いビルが建っててさ、さすが都会って感じだよ」
「そうなんですか!」
「太陽がまだ高いからか、水面がキラキラしてる! あ、公園が見えてきた。東京って、川の横に公園を作りがちだよね」
そんなふうにかけるくんは私に景色を伝えてくれる。
別にお願いしていないのに、自分から。
もう……心に、「うれしい」があふれてしまう。
「おお!」
「どうしたんですか?」
目の前の橋の側面に永代橋ってあるから、永代橋っていう橋なんだろうけど、他の橋より低いんだ。頭をぶつけるかもしれないからしゃがんで!」
言われるまましゃがむと、かけるくんもしやがんだのか、正面からかけるくんの声がした。
「ごめん、思ったより低くなかった。全然ぶつけないや」
おかしくって、「なんですかそれ」とつっこんでしまう。
気がつけぱ、あはは、と声を出して笑っていた。
「東京湾に出たのかな」
かけるくんが立ち上がったのか、上から声がする。
「そろそろ到着ですかね」
「角度的に大学は見えないけど」
もう終わりか~、と残念に思いながら私も立ち上がったときだ。急に水上バスが揺れた。
そう思った瞬間、私は体勢を崩していた。同時に、かけるくんの手の温かさが肩に伝わった。
「きゃっ」
「あ、ご、ごめん」
助けてもらって、急に触れられて、なんだろう…心臓がバクバクと動いていた。
かけるくんに触れられたところが、熱をもったように熱い。ついでに私の頬も熱い。
「急に触ってごめん」
正面からかけるくんの声がする。つまりまだ抱えられている。
ドキドキドキと、心臓が元気に脈打っている。
あ……これか。
そう思った。
触れられると顔から火が出そうなほど恥ずかしくて、するっと言葉が出なくなって、考え思い返せば、朝から私は変だった。
いつもより支度を入念にして、別に話さなくていいことを力ミンクアウトして。
かけるくんによく見られたくて、かけるくんに知ってほしくて。
優子ちゃんの言葉をふっと思い出した。
『相手によく見られたかったり、逆に、人に見せられない自分を知ってもらって受け入れてほしかったり、そういう感じ……なのかなあ』
そうか。
そうだったんだ。
私は、もう恋をしていたんだ。
ありがとう、かけるくん。
いつも冗談を言って笑わせてくれて。
目が見えない私でもフラットに接してくれて。
さりげなくやさしくしてくれて。
恋を知らなかった私に、恋を教えてくれて。
すっごい、うれしい!
心臓はまだ強く脈打っている。私の内側から、ドンドン、と叩いているようだった。
支えてくれたかけるくんの腕の中で、かけるくんに満面の笑みを送る。
かけるくんが、少しは私にドキッとしてくれたらいいなって思いながら。
「すっごい楽しいです」
目が見えなくても顔が見えなくても人を好きになれるって知ったとき、私は泣きそうだった
私でもちゃんと恋ができるんだって、かけるくんの腕の中で泣いてしまいそうだった。
たけど、笑うことでぐっとこらえることができた。
《私は恋をする 了》
#2 - 2023-10-28 05:36
リゼ・ヘルエスタ
(どこか遠くへ行く、あなたを信じます)
#3 - 2023-10-29 01:51
千ヶ崎いり
(这超越了任何甜美的瞬间。)